秋の味覚は芋と松茸だけじゃない [老後]
子供の頃は秋になると山に遊びに行った。目的は山栗とアケビで、結構美味しかっ
た。でも山栗はそう取れなかったので、里に降りて来て農家の栗畑を狙って怒られ
た。やはり栗はそう簡単に手に入らなかったが、母に茹でて貰って食べた味は今で
も忘れられない。私は現在所沢に住んでいるが、車で走っていると芋掘りののぼり
を良く見かける。サツマイモが2株で500円、サトイモが1株で400円とかの料金案
内があり、お金を払って迄も労働して芋を買うという事に私は奇妙な感じを受ける。
家が農家だったので、子供の頃はジャガイモ、サトイモ、サツマイモ堀を手伝わされ
た。芋堀など苦痛でしかなくて、何でこんな事にお金を払わなければならないの?
という思いしかない。お金を頂けるのならば、まあやってもいいかな?位の気持ちし
か無くて、ましてやお金を払ってまで嫌な作業をするという事が理解出来ないのだ。
そして作業がダサい、田舎臭いと心のどこかで思っている。昔、家内が幼稚園児の
長男を自転車に乗せて家に帰ろうとしていたら、農家の人に呼びとめられたという。
「これからTVの取材があるので、楽しく芋掘りをしている親子を演じてくれないだろ
うか?」と言われたという。私はこの話しを聞いて「余程、芋掘りする親子にピッタリ
の顔だったんだね」と言って大笑いをしてしまった。家内は「どうせ私は」と怒ったが。
育ちのせいなのだろう、柿などスーパーで買う気がしない。これが梨か葡萄やみか
んならば、買ってたべようかな?という気になる。けれども「柿を買って食べる?」と
いう発想が無い。何故ならば、田舎では柿などタダで幾らでも食べられた。この感
覚、例えば静岡のみかんや山梨の葡萄の県民に「その果物って、買ってでも食べ
たい?」と聞いてみたい。子供の時にタダで食べられた物は、買って迄食べたいと
思っていないのだ。ましてや芋、などと言ってしまったら罰があたるのだろうけれど。
家内の実家はお寺と言う事は何度も申し上げて来たが、境内に落ちている銀杏は
拾っても構わないと思っている人が大勢ではあるまいか?これはお寺にとっては痛
い事なのだ。銀杏はお寺の行事の料理に使うので、足りなければ買わなければな
らない。けれど、参拝者にして見ればお寺は公共の場で、銀杏など公共の場に落ち
ている臭い物で拾ってあげた方が良い、と思って居られる方が大半だと思う。私も
家内と結婚しお寺の内情を知る前はそうっだった。義姉も時々銀杏を拾っている老
人に「何してるんですか~?」と柔らかく注意をするらしいが、あまり効果が無い。
秋といえば松茸だが、坊主の義兄は松茸貯金という物をしており毎年国産の松茸
を我が家に送って来て呉れた(過去形に注意)。やはり「秋は松茸だ!」というので、
秋に寺に行けば松茸ずくしの御馳走が出て来た。でも、松茸貯金をして迄御馳走を
してくれている訳で、世間で言う程の「坊主丸儲け」では決して無い。けれども、家内
の姉の子供達が幼い時に「じゃん(義兄)が、朝早く境内の松ノ木の根元に松茸を
植えておいて、松茸が出てるぞと朝早く起こしてくれた」といういたずらを聞いたら、
やぱりこんないたずらが出来るのは儲かっているんだなと思えて仕方が無かった。
このお寺福島県の会津若松にあるのだが、観光客目当ての松茸街道というのがあ
り軒並み道路を挟んで松茸を売っていた。中には国産品と偽って韓国産の松茸を
売っているお店もある。義母は小学校の教師をしていたので、こういう商売を許せ
ない性分で「韓国産でしょ!」と言う。それだけならば良いのだが、それを値切って
結局買わない。店主とのやりとりをはらはらしながら見ていた私は、結局「?」で終
わってしまうのだが、秋の収穫を一番楽しんでいるのは義母だという事に気付く。
もう90歳になろうとしているのだが、実りの秋を何時までも楽しんで欲しいと思う。
た。でも山栗はそう取れなかったので、里に降りて来て農家の栗畑を狙って怒られ
た。やはり栗はそう簡単に手に入らなかったが、母に茹でて貰って食べた味は今で
も忘れられない。私は現在所沢に住んでいるが、車で走っていると芋掘りののぼり
を良く見かける。サツマイモが2株で500円、サトイモが1株で400円とかの料金案
内があり、お金を払って迄も労働して芋を買うという事に私は奇妙な感じを受ける。
家が農家だったので、子供の頃はジャガイモ、サトイモ、サツマイモ堀を手伝わされ
た。芋堀など苦痛でしかなくて、何でこんな事にお金を払わなければならないの?
という思いしかない。お金を頂けるのならば、まあやってもいいかな?位の気持ちし
か無くて、ましてやお金を払ってまで嫌な作業をするという事が理解出来ないのだ。
そして作業がダサい、田舎臭いと心のどこかで思っている。昔、家内が幼稚園児の
長男を自転車に乗せて家に帰ろうとしていたら、農家の人に呼びとめられたという。
「これからTVの取材があるので、楽しく芋掘りをしている親子を演じてくれないだろ
うか?」と言われたという。私はこの話しを聞いて「余程、芋掘りする親子にピッタリ
の顔だったんだね」と言って大笑いをしてしまった。家内は「どうせ私は」と怒ったが。
育ちのせいなのだろう、柿などスーパーで買う気がしない。これが梨か葡萄やみか
んならば、買ってたべようかな?という気になる。けれども「柿を買って食べる?」と
いう発想が無い。何故ならば、田舎では柿などタダで幾らでも食べられた。この感
覚、例えば静岡のみかんや山梨の葡萄の県民に「その果物って、買ってでも食べ
たい?」と聞いてみたい。子供の時にタダで食べられた物は、買って迄食べたいと
思っていないのだ。ましてや芋、などと言ってしまったら罰があたるのだろうけれど。
家内の実家はお寺と言う事は何度も申し上げて来たが、境内に落ちている銀杏は
拾っても構わないと思っている人が大勢ではあるまいか?これはお寺にとっては痛
い事なのだ。銀杏はお寺の行事の料理に使うので、足りなければ買わなければな
らない。けれど、参拝者にして見ればお寺は公共の場で、銀杏など公共の場に落ち
ている臭い物で拾ってあげた方が良い、と思って居られる方が大半だと思う。私も
家内と結婚しお寺の内情を知る前はそうっだった。義姉も時々銀杏を拾っている老
人に「何してるんですか~?」と柔らかく注意をするらしいが、あまり効果が無い。
秋といえば松茸だが、坊主の義兄は松茸貯金という物をしており毎年国産の松茸
を我が家に送って来て呉れた(過去形に注意)。やはり「秋は松茸だ!」というので、
秋に寺に行けば松茸ずくしの御馳走が出て来た。でも、松茸貯金をして迄御馳走を
してくれている訳で、世間で言う程の「坊主丸儲け」では決して無い。けれども、家内
の姉の子供達が幼い時に「じゃん(義兄)が、朝早く境内の松ノ木の根元に松茸を
植えておいて、松茸が出てるぞと朝早く起こしてくれた」といういたずらを聞いたら、
やぱりこんないたずらが出来るのは儲かっているんだなと思えて仕方が無かった。
このお寺福島県の会津若松にあるのだが、観光客目当ての松茸街道というのがあ
り軒並み道路を挟んで松茸を売っていた。中には国産品と偽って韓国産の松茸を
売っているお店もある。義母は小学校の教師をしていたので、こういう商売を許せ
ない性分で「韓国産でしょ!」と言う。それだけならば良いのだが、それを値切って
結局買わない。店主とのやりとりをはらはらしながら見ていた私は、結局「?」で終
わってしまうのだが、秋の収穫を一番楽しんでいるのは義母だという事に気付く。
もう90歳になろうとしているのだが、実りの秋を何時までも楽しんで欲しいと思う。
秋はマッタケがと思いますが安いのは韓国か北朝鮮経由の中国産が多いですね、でも香りが違いますね。
国産と偽って販売するなんて詐欺ですね。
by 馬爺 (2016-10-24 10:51)